陶晴賢関連エントリー

(弥山・奥の院)陶晴賢公一族郎党戦死者碑

『弘治元年初日(?) 陶晴賢公一族郎黨戰死者碑 明治44年6月13日建之』と刻んでありました。 明治になって建立された石碑ですので ... (弥山奥の院) 陶晴賢公一族郎黨戰死者碑 広島ぶらり散歩 「宮島・弥山付近」一覧・編 広島 ...

(弥山・奥の院)陶晴賢公一族郎党戦死者碑

陶晴賢(隆房)

1552年3月25日(天文21年)、陶晴賢(はるかた)が、大友晴英(後の大内義長)に大内氏の家督を相続させる。 陶興房の次男。周防守護代。武勇、軍略に優れ西国無双の侍大将と言われる。 前年の1551年、当主の大内義隆を自害に追い込み ...

陶晴賢(隆房)

陶晴賢の謀反 「厳島の戦い」

... 諌言も聞き入られないようになると両者の溝は深まり、やむなしと見た重臣「陶晴賢」は反乱を起こしてこれを討ち取ってしまうのでした。 天文二十年(1551) 大内義隆死亡。 にわかに不穏な空気が流れてきました…。 ★ランキング参加しております。 ...

陶晴賢の謀反 「厳島の戦い」

陶晴賢

陶晴賢 (1521-1555) 陶興房の子。五郎、隆房。尾張守、中務大輔。大内氏の周防守護代を務めた。 ... ちょっと上の絵からは想像がつかないかもしれませんが、陶晴賢は美男として知られました。このため、主君・大内義隆に ...

陶晴賢

大元浦 (陶晴賢上陸の地)

... (天文23)年厳島合戦の前哨戦ともいえる「折敷畑の戦い」(廿日市市)に敗れた陶晴賢は、 毛利元就と厳島で雌雄を決するため、 翌(1555)年9月20日、岩国から二万余の大軍を率いて、この大元浦に上陸しました。 大元浦 (陶晴賢上陸の地) 広島ぶらり散歩 ...

大元浦 (陶晴賢上陸の地)

陶晴賢とは?

陶 晴賢(すえ はるかた、大永元年(1521年) - 弘治 (日本) 弘治元年10月1日 (旧暦) 10月1日(1555年10月16日))は戦国時代 (日本) 戦国時代の武将で、大内氏家臣。陶興房の次男。幼名五郎。初名・隆房(たかふさ)。周防国 周防守護代。中務大輔。尾張守。
陶氏は大内氏一族で、大内氏重臣として周防守護代をつとめる家柄である。五郎は美男として知られ、最初大内義隆の寵童として仕えた。元服してからの名である隆房(たかふさ)は義隆の偏諱を受けたものである。1539年、父が病没したために家督を相続する。武勇・軍略に秀でた人物で、「西国無双の侍大将」と呼ばれた。
1540年から1542年まで、尼子氏との戦いで義隆に代わって総大将の権限を与えられ、活躍した。しかし1542年の出雲国 出雲遠征で月山富田城攻め(第一次月山富田城の戦い)に失敗した大内軍が大敗して以降は、義隆は軍事面に興味を示さなくなり、文化に傾倒するようになった。このため、文治派として台頭してきた相良武任と武断派の晴賢は徹底して対立、やがて相良武任を重用する義隆とも不仲になってゆく。

陶晴賢の詳細